青ヶ島はなぜ人が住んでいるのか|噴火で無人島になって50年、還住を果たした島にいま155人

大凸部から見下ろす青ヶ島の二重カルデラと中央の丸山

青ヶ島は、東京から南へ358km、八丈島から68km離れた、伊豆諸島で人が住む最南端の島だ(青ヶ島村)。周りを崖に囲まれ、島の幅の半分以上を火口が占めている。それでも2026年1月1日現在、155人・111世帯がこの島に住民登録している(東京都の住民基本台帳)。

「なぜこんな場所に人が住んでいるのか」と検索する人は多い。答えの半分は歴史にある。この島は江戸時代の噴火で一度無人島になり、約50年後に島の人たちが戻ってきた。島ではこれを「還住(かんじゅう)」と呼ぶ。残りの半分は、いまの暮らしのしくみだ。青ヶ島村・東京都・気象庁の公式資料から、その両方をたどった。

天明の大噴火で、島は無人島になった

青ヶ島村の公式サイトによると、青ヶ島が記録に出てくるのは15世紀に入ってからで、その中身は船の遭難などの海難事故ばかりだという。船で行き来することがそれだけ難しい島だった。

転機は天明5(1785)年の大噴火だった。村は「島民200人余りが70㎞離れた隣島の八丈島へ逃れ、青ヶ島は無人島と化した」と書いている(距離は村の歴史の記述のまま)。気象庁の記録では、当時の居住者327人のうち130〜140人が亡くなったと推定され、残りは八丈島に避難し、以後50余年無人島になった。避難した人数は、村の記述では200人余り、気象庁の数字から引くと190人前後になる。島の真ん中にある丸山は、このときの一連の噴火でできた火砕丘だ(気象庁)。

青ヶ島の青宝トンネルの入口。苔むした坑口の奥に、まっすぐな1車線のトンネルが続く
青宝トンネル。外輪山を抜けて三宝港へ通じる

50年後の還住と、名主・佐々木次郎太夫

島民が青ヶ島に戻ったのは、天保6(1835)年。村の公式サイトは「佐々木次郎太夫らが島民の先頭にたち、ふるさと青ヶ島へ還住を果たした」「約半世紀も後のことでした」と書いている。

佐々木次郎太夫伊信(これのぶ)は、明和4(1767)年に青ヶ島で生まれた名主だ。青ヶ島村教育委員会の資料は、八丈島に逃れた島民の還住を果たし、旧地再興を指導した人物として紹介している。民俗学者の柳田国男が「青ヶ島のモーゼ」と呼んだことでも知られる。天保15(1844)年には、幕府の費用を使わずに島を開発したことを理由に、一代限りで苗字を名乗ることを許された。亡くなったのは嘉永5(1852)年、数えで86歳だった。

この経緯は文字でも残っている。次郎太夫の子孫の家に伝わった古文書のうち「青ヶ島諸覚」には、1759年から1840年までに島から八丈島の役所へ出した届や願書の控えが収められていて、村教育委員会は還住の歴史が記された青ヶ島唯一の史料としている。この「青ヶ島諸覚」を含む佐々木家文書3冊は、村指定有形文化財だ。次郎太夫の事績と肖像を描いた「紙本着色佐々木次郎太夫伊信肖像幷伝」は東京都指定文化財だ。島内には次郎太夫の碑「還住像」と、玉石垣とソテツの大木が残る佐々木次郎太夫屋敷跡がある(青ヶ島村)。

人口はどう変わってきたか

還住のあと、島の人口は一時、噴火前の2倍を超えた。村の公式サイトと東京都の統計から、節目の数字を並べた。

年 できごと 人口
天明5(1785)年 天明の大噴火。生き残った島民は八丈島へ避難 噴火当時327人(気象庁)
天保6(1835)年 還住 240人ほど(青ヶ島村)
明治14(1881)年 人口が最大に 754人(青ヶ島村)
明治38(1905)年 東海汽船の船が寄港し、青ヶ島への定期航路が始まる —
昭和15(1940)年 青ヶ島村として独立(普通町村制施行) 407人(青ヶ島村)
令和8(2026)年1月1日 住民基本台帳 155人・111世帯(東京都)

754人から減った理由について、村は、小笠原へ行く船が年に2回青ヶ島に寄港するようになって小笠原諸島などへ人が出ていき、それからはだいたい400人ぐらいで推移したと説明している(寄港が始まった年は村の記述にない)。いまの155人は、東京都の移住ポータルが「日本一人口が少ない島」と書く規模だ。村の公式サイトも、青ヶ島村を「日本一人口の少ない村」としている。

いまの暮らしを支えるもの

人が住むのは外輪山の斜面、カルデラの中には民家がない

集落は、外輪山の北側のゆるやかな斜面にある岡部地区に集まっていて、標高は250〜300m(青ヶ島村)。カルデラの底の池之沢について、村は「上水道やガスなどのライフラインが整備されていないので民家はありません」と書いている。丸山のあるカルデラの中には人は住まず、外輪山の外側の斜面で暮らしている。

水は雨水、熱は地面から

村の簡易水道の経営戦略(平成29年3月)には「青ヶ島村の水源は天水」とあり、雨水を貯水池に貯めて使っている。送水には自然流下を使っているため、ポンプはいらないという。一方、池之沢には「ひんぎゃ」と呼ばれる水蒸気の噴き出す穴がいくつもあり、その熱を使った村営のふれあいサウナ(室温約60度)と、卵やいも、くさやを蒸せる地熱釜がある。ただしサウナは、2026年10月時点で、台風22号・23号による損傷が大きく当面休業すると村が案内している(青ヶ島村)。

池之沢の地熱釜。コンクリートの台に丸いふたが並び、ふたの上に重しの溶岩が置かれている
池之沢の地熱釜。ひんぎゃの蒸気で食材を蒸す

物は船とヘリで届く

八丈島からは船で3時間、ヘリで20分(東京都の移住ポータル)。島の商店は1軒で、食品や日用雑貨を売っている。物資の運搬は天候に左右されるため保存できる冷凍食品が充実していて、島で手に入らないものは通販で取り寄せる、と同じポータルにある。村には冷蔵・冷凍・製氷の物流センター、診療所と保育所が入った複合施設「おじゃれセンター」、小中学校がそろっている(青ヶ島村)。

青ヶ島の三宝港。切り立った崖の下に岸壁と港の施設が並び、斜面は落石防止のネットで覆われている
三宝港。船で届く物資はこの港から崖の上の集落へ運ばれる

火山は、いまも観測されている

青ヶ島は気象庁の常時観測火山で、地震計や傾斜計、監視カメラなどで監視されている。2026年10月3日時点の発表は「噴火予報(噴火警戒レベル1、活火山であることに留意)」。気象庁は、想定火口域内では火山灰や噴気、火山ガスなどが突然噴き出す可能性があるとして、山に入る場合は注意するよう呼びかけている。

島の人がいまも続けていること

島で生まれ育った住民が島の行事を紹介している動画(青ヶ島の「墓刈り」を紹介した動画・YouTube)では、毎年8月のお盆の前に、島のあちこちにある無縁墓の草刈りを住民みんなでする様子が記録されている。島を出た家の墓が、そのまま残っているからだという。動画の中で話し手は、一度無人島になったこと、何度か帰島を試みたことにも触れていた。8月は牛祭り(村の観光行事)や盆踊りもあり、島が忙しくなる月だと話している。

まとめ

青ヶ島は1785年の噴火で一度無人島になり、約50年後の1835年、佐々木次郎太夫らが先頭に立って島民が還住を果たした。その経緯は、東京都指定文化財の肖像と伝や、村指定有形文化財の佐々木家文書(「青ヶ島諸覚」など3冊)に残っている。人口は明治に754人まで増え、2026年1月1日現在は155人。人が住むのは外輪山の北側の斜面にある標高250〜300mの集落で、水は雨水、物資は船とヘリで届く。島内には次郎太夫の碑「還住像」と、玉石垣とソテツの大木が残る屋敷跡がある。

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参考・出典(公式サイト)

※ 情報は変更される場合があります。おでかけ前に各公式サイトでご確認ください。(最終確認:2026年10月)

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